デモクラート1951〜1957

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1999.8.21(土)-10月11日(月)
埼玉県立近代美術館

出品作家
靉嘔 池田満寿夫 泉茂 磯辺行久 井山忠行 岩宮武二 内田耕平 
内間俊子 内海柳子 瑛九  織田繁 オノサトトモコ 加藤正 
河野徹 河原温 郡司盛男 杉村恒 高井義博 棚橋紫水 
津志本貞 鶴岡弘康 利根山光人 早川良雄 
春口光義 船井裕 古家玲子 細江英公 幹英生 森啓 
森泰 山城隆一 山中嘉一 吉田利次 吉原英雄

「デモクラート」とはエスペラント語で「民主主義者」を意味するという。当時瑛九がエスペラント語を学んでいて命名したもの。「デモクラート美術家協会」は、1951年瑛九を中心として大阪で結成されたグループ。瑛九は、翌年東京在住の加藤正に「デモクラート」の運動を東京に広げてくれるよう依頼し、以後大阪と東京そして瑛九の郷里宮崎を拠点にさまざまな活動を展開していくことになります。
 加藤正が1952年3月「東京デモクラート展」で掲げた言葉に当時の活動理念をはっきりとうかがうことが出来ます。

 一. 真のアンデパンダンを貫くため最も民主的な階の運営をはかる。
 二. 無審査・会員・会友・一般参加の階級制を設けず無審査により全員会員。
 三. 会員は既成公募展に出品しない。

 現在読むと時代を感じてしまいますが、当時の美術界は日展を中心に団体展が主流でその中での評価が画家の評価となっていた時代。近代美術に名を残している画家はそのほとんどが所属していました。美術界においてもはや団体展が全く影響力を失っている現代美術の世界では考えられないことですが、当時上記のような活動理念を掲げたことは斬新なことだったのでしょう。
 メンバーはデザイナーや評論家、バレリーナ、写真家など幅広い分野から多くの参加者からなり、瑛九の上京によって東京の活動も広がり機関誌の発行等短期間に活発な活動を展開しています。

 わたしが「デモクラート」の名を初めて聞いたのは、銅版画の制作を始めたばかりの頃です。当時銅版画といえば池田満寿夫が最も影響力をもっており、彼の著作をよく読みました。
 そのなかに瑛九とデモクラートの名前が出ていたもの。それから何度か「デモクラート」について目にするようになりましたが、その活動理念と参加メンバー(池田満寿夫、靉嘔、磯辺行久、泉茂、細江英公、河原温など)は話題になってもその表現活動については全くといっていいほど言及されることはありませんでした。

 今回展覧会を見るとその理由がよくわかります。上記の参加メンバーで靉嘔の作品は特に充実しており、以後のレインボーシリーズへの萌芽をうかがうことができます。また細江英公の写真作品の視点は興味深く感じられます。しかし若い作家のほとんどはまだ黎明期といった風で表現の入り口を見つけかねている様子。他の作家も題材は反体制的でも表現は妙にアカデミックであったりするものも多く作品自体の魅力は残念ながら感じられません。

 1957年「第1回東京国際版画ビエンナーレ」が開催され「デモクラート美術協会」の会員から多くの入選者が出て、泉茂が新人賞に輝きました。前年あたりから会のまとまりが無くなり、その存続を考えあぐねていた瑛九はこの結果によって即座に解散を決定。「デモクラート」が一つの権威になることをおそれたということです。
 
 こうして1957年6月靉嘔の制作した「解散宣言」によって「デモクラート美術協会」は、7年間の活動を終えました。(99.9.6)

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