淡 島 寒 月
(1859〜1926)

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 寒月の生涯については彼の文章を集めた「梵雲庵雑話」を読むのが最も早道、というか現在手に入る資料はこれしかない。また、山口昌男氏の著した「『敗者』の精神史」では、多くの資料の考証により、寒月の人生や精神を伺うことが出来る。
 ここでは、寒月の人生を「梵雲庵雑話」を中心に山口氏の考証も踏まえて年代順に三期に分けて記した。
ただし、寒月自身の記憶が正確でない部分も多く、資料から類推した部分も含む。



第一期(欧米の文化に心酔)
1859 安政6 (0歳) 10月23日 日本橋馬喰町4丁目淡島家に生まれる。本名 淡島宝受郎。
 淡島家は江戸時代の軽焼屋の名店。祖父服部喜兵衛の代に旧幕の御台家(幕府 の献上物を載せる白木の台を作る家)を勤めたため大変裕福だった。
 使用人も多く、江戸に十三カ所も土地を持っており、芝居見物など屋形船で出 かけていた。
1864 元治元 (5歳) 寺子屋に入る
1865 元治2 (6歳) 姉が17歳で死去
1870 明治3 (11歳) 父の椿岳が浅草に住むようになる。
この頃福沢諭吉の「西洋旅行案内」「学問のすすめ」「かたわ娘」を読んだことで西欧の文明に急激に興味を持つようになる。
当時話題になった蒸気船オイラン丸に乗って横浜の兄の所へ行く。
この兄が読書好きで、様々な話しを聞くうち寒月も本に夢中になる。最も寒月に影響を与えた一人。
寒月は文章の中で「私の四大恩人の一人」と西鶴を語っているが、具体的に四人の記述はない。西鶴の他に、兄と父椿岳、そして福沢諭吉か。
1872 明治5 (13歳) 散髪(ざんぱつ)。 祖母75歳で死去。
1873 明治6 (14歳) アルファベットを習う。
 漢学よりも先に英語を読んだほど、欧米に興味があったことを寒月自身が語っ ている。
1874 明治7 (15歳) 漢学塾に通う。
1875 明治8 (16歳) ハリフアキスという外国人に英語を学ぶ。
1877 明治10 (18歳) 1月4日、自宅が類焼。新築した自室を洋間にする。
大工に柱を丸く削ってもらい、ペンキを塗り、カーテンをかけ、ベッドに寝た。
また、当時珍しかったランプを使用し、ビスケットやバターを食べ、珈琲を飲んだ。旧家であったため、かなり疎ましく思われていたらしい。
叔父の伊藤八兵衛が65歳で死去。
 八兵衛は、父椿岳と共に江戸に出てきて御用商人伊藤家の養子になり、巨万の 富を築いた。
1878 明治11 (19歳) 神田区小川町済世学舎入学するが、しばらくして退学。
1879 明治12 (20歳) 神田明神坂に転居。鹿島香取に一人で初めて旅行する。

第二期(西鶴への傾倒)
1880 明治13 (21歳) 近くの湯島聖堂に聖堂図書館(後の帝国図書館)があり、通うようになる。
当時寒月はアメリカに帰化したくなり、そうなると日本のことを聞かれるだろうと思ったため日本の古典を勉強したと自ら語っている。古書(洒落本)200冊購入。
京伝の「骨董集」で西鶴を知り、その著作に夢中になる。
 後、愛鶴軒西跡(西鶴を愛しその跡を追う)と号した。
聖堂図書館で「燕石(えんせき)十種」(全60冊)を写本(2、30冊行う)。
 「燕石十種」とは江戸時代、達磨屋呉一が古本を写本して知人に贈ったもの。
1882 明治15 (23歳) 12月25日 結婚。
1883 明治16 (24歳) 浅草森下町に転居。 この頃禅に凝る。
1884 明治17 (25歳) 長女、キョウ誕生。
 キョウは後に梵雲庵に出入りしていた木内辰三郎と結婚。
 日本で初めての女性校長(板橋志村第一小)となる。
 戦後は参院選挙にも出馬し、民主党婦人部の代表として女性の労働問題解決な どに尽力した。
1885 明治18 (26歳) 初めて関西に旅行する。
 銭湯に行くと言って手ぬぐいに着流し姿で旅に出かけてしまい、三ヶ月後に自 宅に帰るという旅行だった。
 「一番に船で神戸へ上って、それから須磨明石を見て、大阪へ上って奈良を訪 い、帰りにいろいろの古瓦を買って伏見まで来ますと、伏見の八百屋で、青物 籠を見て、如何にもその形が面白いので、とうとう譲りうけてその中へ瓦を入 れて、竹を天秤棒の代わりにしてその籠を担って大津までかついで来たことが ありました。その籠は火鉢にして今も蔵しています。(寒月談)」
古美術に興味を持つ。
1886 明治19 (27歳) 淡島家の軽焼屋が廃業。
1887 明治20 (28歳) 長男、智蔵誕生。
この頃、幸田露伴ら文学者と知り合い、西鶴を紹介する。
1889 明治22 (30歳) 9月父、椿岳66歳で死去。掃墓癖(様々な古人の墓をめぐる)が起こる。
尾崎紅葉により「我楽多文庫」に寒月が関西旅行から得て書いた「百美人」が掲載される。しかし、西鶴そっくりであり、寒月自身も根気が続かず4編で中断した。この頃から書物に対する興味が薄れる。
1890 明治23 (31歳) 「世の中がめんどうになって(寒月談)」読売への寄稿もやめ、愛鶴軒の号を捨てる。
幸田露伴は乱筆狂士というペンネームで愛鶴軒(寒月)や紅葉が登場する「硯水水滸伝」という小説を書いていたが、寒月の希望で愛鶴軒は小説の中で亡くなる。
1891 明治24 (32歳) 次男、謙誕生。


第三期(隠居:梵雲庵での生活)

 隠居といっても梵雲庵での生活は寒月の人柄とその博識により多くの人が訪れた。
また、珍しいものに対する好奇心はとどまることを知らず様々なことに興味を持った。
 旅行に夢中になり、そしてキリスト教や様々な宗教を学び、進化論や社会主義を研究し、エジプトなどエスニックな世界に興味を持ち、泥人形を制作し、染色にも手を出し、玩具のコレクションをしたり・・・。
 また器用な寒月は、古美術など興味ある物を町で見かけると梵雲庵に帰って、そっくり同じ物を作って楽しんだという。
 絵もよく制作し、色紙に描いた自らの絵を「バサラ絵」を称して、訪問者に進呈したり、募金箱を置いて自由に値をつけてもらったりした。金銭がたまると孤児院等に寄付したという。
「虚心坦懐」「来るものを拒まず、さるものを追わず」を心情に生活した淡島寒月はまさに『世界に遊んだ』趣味人であった。

1893 明治26 (34歳) 向島の梵雲庵(父椿岳が晩年住んでいた所)に転居。
1895 明治28 (36歳) 三男、皓誕生。
伊勢から関西へ旅行。
知人の薦めで以前キリスト教に興味をもっていた寒月は軽い気持ちで洗礼も受けていた。キリスト教に凝り、外国人の牧師に請われて布教活動をしたが、寒月自身が最も面白かったと述懐する大島布教旅行もこの頃か。
また、体格のいい寒月はよく外国人に間違えられたそうで、それならいっそ欧米人になろうとして、ある時は髪を灰汁につけて日に干して赤くしたり、眼を青くするにはどうしたらいいか本気で考えていたという。
1898 明治31 (39歳) 6月12日、母死去。享年70歳。
1899 明治32 (40歳) 次女、千代野生まれる。
1900 明治33 (41歳) 長女キョウと共に富士登山後、一人で奥州旅行。
1902 明治35 (43歳) 関西へ旅行。
1903 明治36 (44歳) 四男、章誕生。
九州一周の後、出雲を旅行。
1912 大正3 (55歳) 長男智蔵(25歳)結婚。次男謙(21歳)伊藤家の次女ケイ子の養子になる。
1914 大正5 (57歳) 次女、千代野(15歳)を馬喰町の淡島家に養女として入籍。
1915 大正6 (58歳) 九州熊本を旅行。
1921 大正12 (64歳) 9月1日午前11時58分。関東大震災。
梵雲庵全焼し、収集した書物、玩具等一切を失う。
しかし、被災直後、麹町の夜店で玩具を7,8点購入している。(内田魯庵談)
12月梵雲庵再築。
1923 大正14 (66歳) 1月29日長男智蔵渡米。5月29日帰京。
1924 大正15 2月23日午前1時、寒月死去。享年66歳。
病中句
「おぼつかな また会うことはたのみなし 今を限りと君と語らん」
辞世の句
「我と生き 我と死するもわがことよ その我がままの六十八年」

「針の山の景しきも見たし極楽の 蓮のうえにも乗りたくもあり」

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