淡 島 椿岳
(1823〜1889)

back

 椿岳については彼自身の書き残したものはなく、寒月や交遊のあった人々の話しでしか伝わっていない。しかし、誰もが語っているのは、相当な変人奇人であったということ。ここではそれらの話しを年代順に整理しながらまとめてみたが、寒月同様年代には不確かなものも多い。

 画家としての椿岳は、日本画洋画ともに興味を持ったが、古い日本画の粉本を基本にした形式から離れ、独自に工夫した。鳥羽僧正の「鳥獣戯画」を研究し、独自の「椿岳漫画」を制作したが、その作品は流麗で洒脱、大変魅力的である。
 また時には大衆的な泥絵具(絵馬などに使われる安価な絵具)を使い、古煉瓦などを砕いて絵の具を作ったり、木ぎれを筆にして描いた。また粗末な紙や唐紙などを使っており、椿岳の手にかかると泥絵具と相まって独特の味わいがあったという。



1823 (文政6) 0歳 7月 武蔵川越在小ケ谷村の裕福な農家内田家に生まれる。
20歳過ぎ 兄の伊藤八兵衛と江戸へ行き、馬喰町の名物軽焼屋淡島家の養子になる。
(伊藤八兵衛については寒月のページに掲載)
 後、水戸藩士小林家に入り、淡島の姓を名乗る。
日本画は馬喰町近くの蔵前に画塾を開いていた大西椿年(亀の絵を得意とした)と椿年の師であった谷文晁に師事し、彼の死後は高久隆古に学んだ。
また、洋画は川上冬崖、高橋由一らの交流を通して学ぶ。
1859(安政6) 36歳 寒月生まれる。
1870(明治3) 47歳 浅草に住む。
 浅草寺伝法院の仁王門の二階に住み。参拝する人に茶を振る舞ったり、陳列し た絵や骨董を見せたりしていた。
 伝法院の住職唯我僧正とは親友で骨董道楽の仲間だった。またポンチ絵で知ら れるワーグマンとも親交があり、洋画の様々な技法を知り、油絵も描いた。
1871,2(明4,5) 48,9歳 横浜にピアノが輸入されたと同時に購入。
 全くピアノは弾けなかったが、神田今川橋で西洋音楽機械展(今で言うコンサ ート)を開く。初めて聴く西洋楽器の音が聴衆には受けたという。
1874,5(明7,8) 51,2歳 淡島堂に住む。
 浅草寺の庭地取り上げのため仁王門に住めなくなり、唯我僧正の勧めで本堂左 にあった淡島堂に住む。淡島堂は神仏混合の淡島神社の分祠。
 椿岳は頭を剃り、本念と称し、デタラメなお経をあげていたが、参拝客には評 判がよかった。また寒月が遊びに行ったときなど、新しい知識を「教化の材料 にする」といってよく話しを聞かれたという。
 淡島堂の入り口には安価な紙に泥絵具で描いた絵をぶら下げて売っていた。後 の浅草絵になったもので寒月によると椿岳が創始したという。また人形を作っ て泥絵具で彩色しニスで仕上げて売ったりもした。
 この頃、下岡蓮杖(日本商業写真の開祖)、仮名垣魯文などがよく遊びに来て いた。
1879,10(明12,3) 56,7歳 「西洋のぞき眼鏡」と銘打ったジオラマを公開し、大評判になる。
 外国人が持ってきたジオラマの古物を買い込んで伝法院と庭続きだった茶畑を つぶして西洋型の船に模した小屋を建てた。その舷側の明かり窓から西洋の景 色、戦争、ナポレオン、ローマ法王などの油絵を見せた。
 東京中の評判になり川上冬崖が「ダイオラマ」の看板を書いたり、西郷隆盛が 見学し、「万国一覧」と揮毫した額を贈ってくれた。一人一銭で三千円の収益 があったというが、あまり人が多いので、面倒になりやめる。
1884頃(明治17) 61歳頃 向島5丁目弘福寺(興福寺)門前に転居。家を梵雲庵と名付ける。
 この頃、近くの秋葉神社の境内で易者をしている。
 椿岳の生活については交流のあった依田学海が日記に記している。その中には 当時愛人が小城という名だったことや共に月琴を弾いていていたこと、椿岳の 女性関係についても記されている。
「椿岳は豪奢、処女を娶りて妾と為し、その数を知らず。居ること久しきもの  は二年或いは一両月、甚だしきに至っては三両日にして去らしむ。
 今六十五。(略)殆ど禅理を悟る者に似るも亦奇人也。夜熱きこと甚し。」
 (明治18年8月8日の日記)
 数え年のため、多少年齢にずれがあるとはいえ、いやはや。
1889(明治22) 66歳 9月23日死去。
一ヶ月前に家を出て、帰宅した後亡くなったという。
辞世の句
「今まではさまざまな事してみたが、死んでみるのは之が初めて」

まさに椿岳の面目躍如。

back  ページのtop