湯布院美術館と佐藤溪

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 大分県の湯布院は温泉で知られる観光地。周囲を山に囲まれ、そのひっそりとした佇まいが好まれている。にぎやかな歓楽街があるわけではなく美術館や観光客をあてこんだ軽い店もちらほら見受けられるごく普通の温泉地である。

 その中でもこの湯布院美術館は異色。象設計集団の手による統一性のない凸凹した建物はいつも工事中のようだが(実際98年当時工事をしていた)妙に素朴な感じで落ち着く。土を載せたドーム型の建物あり、長屋風の建物あり、洋館風の建物ありと行った状態で作品は佐藤溪の作品を中心に展示している。

 佐藤溪は1918年広島に生まれる。1928年に東京の小学校に転入。1933年川端画学校卒業。戦争では入営し1945年召集解除され翌年両親の住む島根県出雲市に落ち着き詩作にふける。「溪」というのはそのころのペンネーム。

 1948年30歳の時自由美術家協会展に初入選。翌年推薦により会員に推挙。1950年京都の大本教に居候し機関誌の表紙を描く。1954年埼玉県川口市に住む。翌年から東京以西の長期の旅にでる。1956年東京荒川区に住む。1960年旅先の沼津で脳卒中のため倒れる。両親のいる大分県湯布院に帰るが12月30日永眠。享年42歳。(上写真は佐藤溪詩画集/湯布院美術館発行)


画家として歴史に残るような名作がある訳ではないが1984年には彼を知る人々の協力で佐藤溪美術館が湯布院に開館した。
 1990年に閉館するが翌年に湯布院美術館と改められ現在に至る。

 彼が全国的に知られるようになったのは死後20年以上立った1982年。芸術新潮1月号の州之内徹氏の「気まぐれ美術館」に紹介されたことによる。4年後の1986年にも州之内氏は湯布院を訪れ「気まぐれ美術館」で再び取り上げており自らの現代画廊で「佐藤溪遺作展」も開催するといった熱の入れよう。それらの内容は新潮社から出版されている「さらば気まぐれ美術館」で読むことができる。
(ちなみにこの「気まぐれ美術館」は芸術新潮に州之内氏の死の直前まで14年間連載された奇跡的なエッセイ。このために芸術新潮を買っていた読者も多かった。現在は全5巻の単行本になっており、文庫本でも手に入る) 

 
その州之内徹氏や図録の資料によると佐藤溪は元来放浪癖があり昭和25,6年頃には京橋の公園あたりで箱車(畳一枚くらいの大きさの箱を作り車を4つつけたもので移動自由)の中で生活し絵を描いていたという。(上図は当時の新聞に掲載されたもの) 
 またあるときはふらっと1年2年旅に出てしまったり、ある時は芸術教なるものを創始してその教祖になってみたりと何ともつかみきれない人物であったようだ。

 彼の作品には大きく分けて二つの系列がある。
一つはフォルムと色彩を探りながら描く対象にたどりついたかの様な魅力的な作品。もう一つは宗教色が強く一種異様な舞踊や儀式をテーマにしている作品。この中間に位置するのが彼の代表作「蒙古の女」。
 初めて観た時には独特の人物表現に強烈さだけしか残らなかったが、何故か何度も観たい気持ちにさせられる不思議な作品。

 以下は川口や神戸の下宿先を訪ねたことのある弟和雄氏による言葉
「灰皿から本立て、服のボタンも木で造って彫刻してあった兄の部屋は楽しさが一杯の楽園のようであった。自分の絵は売れなくても50年たったら必ず世の中に出ると云っていた。(中略)世の中は高度成長の波に乗り、好景気というのに全く正反対の道を独り歩いていった溪兄、何時も財布はカラッポの兄であったが、心は豊かで友達をとっても大事にする兄、折角少し財布をうるほした時、友達から借りに来られた時、相手に惜しげもなく全部やってしまう兄は人間離れしていた。」
(99.11.5記)
参考文献:「佐藤溪詩画集」「さらば気まぐれ美術館」 

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